「人に教えるということ」


上口泰隆



 人は皆何かに目標をもとうとして生きている。
柔道を上手くなりたいという人もいれば、ノーベル賞を取ろうとする人もいるし、より美味しいものを食べようと追求する人など多種多様である。
 
 もし、あなたが何かひとつの道において誰にも負けないくらいの知識と力があって、そこに「 どうしてもあなたにその技を習いたい。」という人が来たならば、あなたはどのようにその新入りを指導するか?
 あなたのところへ来た新入りは、誰よりも早くその道において一番であるあなたから、技術を吸収したいと思っている。
 あなたは、彼に失敗しないような最善の方法を教えるか?それとも、経験することこそ誠の力になると信じ、これをしちゃ悪くて、これは良いというような事は言わないようにするか?
それとも、絶対これは外せないというところは言っておいて、あとは自由にさせるか?
  あなたが長年の経験のなかで得てきたもののうち最善のものだけをとって、教えたとしよう。彼は、師を放れて一人で迷った時、為すすべを知らないだろう。
なぜなら、自分で考えることよりもその道について長く行った人の言うことの方が正しいと思うからである。
 あなたがいろいろ経験を積ませるために、コレをすべきだとかは言わなかったとしよう。
彼はその道について初心者であり、何をしたらいいか解らず諦める者もいれば、試行錯誤する者もいるだろう。
試行錯誤すればまあ安心である。
あなたが、これは外せないという所は言っておいて、後は自由にさせたとしよう。
初心者の彼は一生懸命教わったことをやるだろう。
けれどその外せないことが本当に彼の求めていることでない限りは、ある種の固定観念を植え込むことになるだろう。
なぜなら、今求めていること以外の忠告は、その人にとって何の発展性もないから。

 あなたが、彼を見ていて、それは明らかに間違っているとわかっていても本当に彼がそのことに関心を持っていない限りは忠告は、ただのエゴにしか感じられない。
それでも後々になって「 あの時言っていたことは、こういうことだったんだ。」というのはある。
あることはあるが自分でそれ以外の可能性を調べないでいて、結果だけを見てそう納得しているのでは、何か足りない気がするのだ。
 
 私は以下のように思う。
 教えようとする事自体が成長を妨げるのではないかとさえ思われる。
私が教えるのではなく、教えられるという姿勢でもって相手を感じてあげる。
言葉はその次に来る。後は共に試行錯誤するだけで良い。

 あなたは、明らかに間違っている教え子を無言で見守ることができるだろうか?


*(改行、校正は編集者によるもので筆者の原文ママではありません。)


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